朝日新聞《サンデーコンサート》1993年10月〜96年3月連載
ヨーロッパにはその昔〈ブタのオルガン〉というのがあったらしい。大小のブタをオルガンの中に固定して並べ、鍵盤を弾くと針がブタの尻に刺さって悲鳴をあげ、それで音楽を演奏する。
しかし、動物が音楽を奏でる例は、何もこのブタのオルガンに限らない。そもそもヴァイオリンの弓は馬のシッポの毛だし、ガット弦というのは羊の腸。オーケストラひとつで何頭の馬がシッポの毛を引っこ抜かれ、何頭の羊が腸を抜かれたことか知れたものではない。そんな仲間の無念を思ったら馬や羊はオーケストラなどとても聴けないのである。（コンサート・ホールに動物が立ち入り禁止なのは、こんな隠れた理由があったりするわけだ）。
しかも、動物たちの受難はこれだけにとどまらない。今は金管楽器であるホルンも、元は角笛というように動物のツノをもぎ取ってプオーと吹いたのが始まりだし、高価なオルガンやピアノの鍵盤の白鍵は象牙製。太鼓の皮にはどこの国でも牛などの動物の皮を張ってあるし、バグパイプの空気袋というのもそもそもはブタやヒツジ一頭分の皮。
さらに、南米のキハダという打楽器はロバや馬のアゴの骨を叩いて文字通り奥歯をガタガタ言わせて音を出すし、フォルクローレで使うチャランゴという小さな弦楽器の胴はアルマジロの甲羅で出来ている。わが国でも三味線の胴には蛇や猫や犬の皮を張ったりするわけだし、中近東の弦楽器は鷲や鷹など猛禽類の鳥の爪（ちなみに料理で使う鷹の爪とは違う）で文字通り爪弾く。
近代ピアノのご先祖様であるチェンバロも、そもそもは弦をカラスやワシの爪でひっかく楽器だったわけだし、音楽とはなかなか残酷なものである。
.... という話を聞いていたＮ嬢。
「でも、まさかカウベルって牛で作った鈴じゃないですよね？」
「まさか。あれは牛の首に付ける鈴でしょ。金属製ですよ」
「よかった。牛を乾かして丸ごと吊るしてシッポを振って鳴らすんだったら怖いな、と思って」
「そ、そんな不気味なもん想像しないでくれる？」
....という話を聞いていたオーケストラ・プレイヤーのＰ氏がボソッと一言。
「でもね。オーケストラなんてまさにブタのオルガンそのものだよ。なにしろ暗い箱（コンサート・ホール）に閉じ込められて、針（指揮棒）で突つかれて、鳴き声（音）を出すんだから」
そう。音楽とは実に残酷な怖い怖い営みなのである。
昨今の恐竜ブームは未だ衰えを知らないらしく、ベートーヴェンもチャイコフスキーも知らない小さな子供が、ティラノサウルスやトリケラトプスなどという妙な名前だけは知っている。ブラキオサウルスをブロントザウルスと間違えようものならそんな子供に鼻でせせら笑われる始末である。
しかし意外なことに、最新の学説ではこの「恐竜」、爬虫類（はちゅうるい）ながら、かなり鳥類に近いのだそうだ。冷血でノソノソ歩く鈍重なトカゲというより、温血で地上を疾走するダチョウのようなイメージらしい。
とすると、外見がトカゲやワニに近いのでガオーとかギャーとか鳴く程度の音感だと信じられてきた彼らも、名歌手である鳥のご先祖様としてピョロロロロとかルルルラララとかいう結構きれいな歌を歌っていたのかも知れない。
「そう言えば、映画の怪獣はみんなラの音で鳴くものね」
「そうだっけ？」
「うん。ゴジラでしょ、モスラでしょ、キングギドラでしょ」
という怪しげな説はともかく、ティラノサウルスがあのデカイ顔で「ホーホゲギョ！」と鳴いた可能性だってゼロではないはずだ。
しかし、残念ながら声や歌は化石になって残ったりしないので、恐竜の歌の化石が発掘される可能性の方はゼロ。
ただ、鳥はノドに「鳴管（めいかん）」という器官を持っていて、ここを駆使して精妙な歌を歌う。だから、恐竜のノドの構造が分かれば、彼らがどんな歌を歌っていたか分かるかも知れないのだ。
この鳴管、英語ではシリンクス（Syrinx）といい、ギリシャ神話の半獣神パンの吹く葦笛（あしぶえ）のこと。まさにノドに楽器が仕掛けられているようなものなので、この鳴管周辺の筋肉が発達しているスズメ系の鳥たちときたら、もう実に見事な歌を歌う。
われらが人間もノドの気管を笛にして歌うのだが、これほど複雑で高度な歌は歌えない。鳥たちから見れば、音を上下させるだけの一本調子の人間たちの歌は、さぞかし幼稚に聞こえることだろう。
そこで人間たちは、あいてる両手を駆使して道具に走った。それが楽器というわけだ。
でも、空気の振動である「音」は、拡散されながらも大気のどこかに残っているはず。耳をすませば恐竜たちの歌だって聞こえるかも知れない。
「そうそう。ママー！って鳴く恐竜はいたんだよ。知ってる？」
「本当？」
「うん。ステゴザウルス」
……あのね。
ある大学の音楽研究室で、音楽を感じるコンピュータを作るにはどうしたらいいだろうか、という話になった。
音楽を作ったふりをしたり弾くふりをしたりするコンピュータはあるけれど、音楽を感じるコンピュータはない。そもそも人間が、〈音楽を感じる〉ということのメカニズムを説明できないからだ。
「リズムは〈数〉ですから説明できるように思えるんですけど」
いや、リズムって数学的に見えるけど、そもそもは心臓の鼓動に共振する気持ちよさでしょ。かなり生物的なもんですよ。だからドキンドキンというパルスで生命を維持する生物にしか意味がない。しかも、手足の数や関節の有無にもかなり影響されますからね。
「うーん。確かにタコやムカデのリズム感は人間とは違うでしょうねえ。メロディはどうです？」
歌は声であり呼吸ですから、肺や気管があることの結果として出来たものですよね。しかも、自分の種族の声の音域のみに反応する〈耳〉と対になってるわけですから、感じ方は生物の形態によってまるで違うはずですよ。
「そうか。ノミとクジラじゃ同じメロディ歌えませんもんね」
それにオスとメスがいないとダメですね。そもそもオスがメスを引き寄せるために声を張り上げたのが、歌の始まりなんですから。
「性欲も音楽の要素ですか。ハーモニーはどうです？」
あれは空間認識に近いから、大脳が発達した生物以外には通じない概念なんじゃないですか。それに、かなり文化的背景とか経験に左右されますしね。
「結局のところ、音楽っていうのは〈音〉の性質ではなくて、人間という生物が音を聞いて感じる感覚の性質なんですかね」
ええ。だから音をいくら科学的に分析しても、音楽の分析にはならない。音楽というのは結局のところ一種の生命現象なのかも。
「あの。お話を聞いてて思ったんですけど……」と横からＮ嬢。
「とすると、音楽を感じるコンピュータを作るためには、耳の他に心臓と肺と気管と二足歩行の身体とオスメスの性別と性欲と文化的背景と記憶とを付けなきゃならないわけですよね。でも、全部付いてる人間が誰でも音楽家になれるわけじゃない……となると」
すべての条件を満たした音楽コンピュータを莫大な予算と手間をかけて作ったとしても、音楽聴いて「感ジル感ジル！」とか言うだけで他に何の役にも立たない代物である可能性は大ですね。
「それじゃあ誰かさんと同じじゃないですか！」
（ドキッ！）
西洋クラシック音楽の分野には、なぜか女性の作曲家がいない。
そう言われて、フランス近代六人組のタイユフェール、現代音楽のグバイドリーナあたりを思い出して反論出来るのは相当なマニア。女性は作曲家に向かない、とまで言われている。
しかし、ポピュラー音楽界には才能ある女性のシンガー・ソングライターが少なくないし、西洋クラシック界でも演奏家は女性の方が花形。オペラは女性歌手がいなければ存在しえないし、ごつい男がゴリゴリと楽器を弾くより、きれいな女性が弾く方が誰が見ても華があるし音楽的だ。
では、どうして作曲だけが奇妙な男女差を持っているのだろう？
「うーん。例えば鳥なんかは、オスの方が歌を歌ってメスを呼ぶわけだから、歌を作るのがオス、聴くのがメス、と決まっているのかも知れないね」とＳ氏。
「でも、そうすると、メスはオスの歌を聞いてその優劣でオスを選ぶんだから、音楽を聴く能力という点ではメスの方が上、と言うことになるわよね」とＮ嬢。
「あ、なるほど」と私。
つまり、オスは一方的に自分について歌い、メスはそれを聴いて種の存続にふさわしい歌を選ぶわけだ。となると、感じ方にも差があるのだろうか？
「少なくとも時間の感じ方は違うんじゃないかな。男の時間と、女性の身体が持っている時間とは違うもの」とＳ氏。
「そうなの？」
「だって女性は、ひと月に一度とか、十月十日（とつきとおか）とかいう時間を身体に持ってるけど、男性にはないでしょ」
「あ、そうか。じゃあ、演奏にひと月かかるような形をした音楽とか、受胎から出産までみたいな大きな時間の起伏を持った表現芸術があれば、女性の独壇場になるかも？」とＮ嬢。
「知れないね」と私。
そもそも宇宙に連なる神秘的な時間は、女性だけに組み込まれている至宝。男に組み込まれている時間というのは、もっと現実的で短い。だから、男は音楽作品のような人工的な時間を自分で作って遊ぼうとするのかも知れない。
「でも、それだったら女としては音楽なんか作るより子供を生んだほうが早くない？」
「確かに」
「そうよねエ。大体、五十年以上も生命を持ち続ける音楽作品を創る男は滅多にいないけど、五十年以上生きる子供を生む女はいくらでもいるもの。だから女は作曲なんかする必要がないのよ」
（うーん。説得力があるなあ）
先月、妹をガンで亡くした。
しかし、悲しい極みに必ずしも悲しげな音楽が聞こえるわけではないようで、葬儀の間中、真白でしびれた私の頭の中に聞こえていたのは、何かとんでもないほど奇妙な明るい音楽だった。
「それはつまり、強い悲しみに対して正反対の明るい感情がよぎるわけで、精神医学ではアンビバレンツとかいうんじゃなかったかな。あまりに強いマイナスのストレスが心に加わると、それを補うように正反対の反応が起きて精神のバランスを取るわけ」と、知ったかぶりのＳ氏。
「ふーん」と私。
そう言えば、モーツァルトが最愛の父親の死の直後に書いたのは、奇妙なほどにふざけた「音楽の冗談」という作品だった。続いて書かれた「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」も、そんな暗い背景があるにしてはあまりにも明るく軽やかな音楽である。
「だってほら、むかしは近所に一人くらい、あ、チョウチョ、あっちにもチョウチョ...... なんてつぶやきながら街を歩いている不思議なお姉さんがいたじゃない？」
「いたかなあ？」
「あれも、失恋したり子供を亡くしたりの絶望で人格が完全に崩壊してしまわないように、どこか心の奥の安全装置が働いて、チョウチョの飛ぶ花園が見えるわけだものね」
「ふーん。じゃあ、お酒を飲むとピンク色のゾウが見えるのも、そうかな？」
「そ、それは、ちょっと違うんでないかな？」
マーラーやショスタコーヴィチの音楽にも、悲しいはずの瞬間に楽しげな音楽が聞こえ、楽しいはずの瞬間に暗く重い音楽が聞こえたりする。苦しけりゃ苦しい、楽しけりゃ楽しい、とストレートに感情をぶつけるベートーヴェンの音楽などと比べると、素直ではないし実に可愛くないのだが、現代人としてはこのくらいひねくれている方が共感できるような気もする。
「そもそも、悲しい時に悲しげな音楽、楽しい時に楽しげな音楽なんていう単純さでは、この厳しい現実を生きていけないからね」
「なるほど」
「ただ、悲しくもない時に悲しそうな歌を歌い、楽しくもない時に楽しそうな音楽を流す、現代社会のそんな無節操さと音楽への畏敬の念のなさが宇宙の調和を乱し、それが原因となってやがて世界は破滅する、と予言したインドの老師もいたらしいけど......」
「結局どうすればいいわけ？」
「さてね」
よく「音楽に国境はない」などと言うが、果たして、音楽は本当に世界の共通言語なのだろうか？
確かに、ロック音楽は世界中あらゆる国に蔓延（まんえん）し、西欧オーケストラはまるで国際的な楽器のような顔をして世界中で鳴り、一方で非西欧圏の民族音楽も世界各地に進出して受け入れられてきている。言語の壁のような障害は、こと音楽に関しては存在しないように見える。
「中でもロック系が強いのは、やっぱりリズムが一番強力な共通言語だからだろうなあ。心臓がついてる生物である限りどうしてもビートにはノッてしまうしね。知らず知らずのうちに下半身から動いてしまう」とＳ氏。
「でも、知らずに下半身が動くのが共通言語なら、痴漢も共通言語ってことになるわね」とＮ嬢。
「す、鋭すぎる指摘だな」と私。
その点、メロディは歌詞という地域言語にくっついているので、いくぶん万国共通性が薄れる。例えばオペラはイタリア語、ロックは英語、ロシア民謡はロシア語、とそれぞれの言語と一体になって生まれた音楽なので切り離すことは不可能。ただし、それが逆に個性的な音楽を生むのだが。
「確かに、演歌のコブシは英語じゃ無理だろうしなあ」とＳ氏。
「シャンソンだってドイツ語じゃあ歌えないわよ」とＮ嬢。
「日本語のロックも恥ずかしいしね」と私。
「あ、問題発言」とＮ嬢。
ハーモニーになると地域差や個人差はさらに大きくなる。西欧音楽に慣れた耳には、例えばアラビア音楽の音階など音が外れているようにしか聞こえないが、これに慣れてしまうと、逆に西欧音楽の音階は表情がなさ過ぎる。ドミソを美しいと感じるのは世界共通の感覚ではないのである。
「じゃあ、生まれてから一度もドミソを聞いたことのない人がドミソを聞くと、どういう風に聞こえるのかしら？」とＮ嬢。
西欧音楽を生まれてこのかた全く聴いたことがないという某国の古典民族音楽の名人がヨーロッパに出てきた時のこと。生まれて初めてオーケストラの演奏会に行った彼が聞いたのは、ブラームスだかのシンフォニー。曲が終わって拍手している彼に、隣に座っていたディレクター氏が「お気に召しましたか？」とたずねると、名人はこう言ったそうだ。
「やっとチューニングが終わりましたね。さて、今夜はどんな曲が聴けるのか楽しみですな」
「ちょっと待て。それは皮肉を言ったんだと俺は思うぞ」とＳ氏。
「あたしも」とＮ嬢。
メロディもリズムもハーモニーも持たない（かのように聞こえる）「現代音楽」という音楽がある。
ふつう音楽は、この三つの要素の美しさと快感を追及するものなのだが、現代音楽はまさにその正反対をやっているように見える。なぜ音楽の快感を否定するような音楽を作ることに、現代の作曲家たちはこだわったのだろう？
「それには実は悲しい歴史があるんだよね」と私。
「へえ。どんな？」とＮ嬢。
音楽は人に感動や快感や高揚感を与える。理屈ではなく感覚的に身体や精神を動かしてしまう不思議な力を持っているのである。そこで先の戦争では音楽のそんな力が色々な用途に利用された。
例えば、勇壮なマーチで軍隊を行進させて戦意を高揚させたり、国歌や軍歌の大合唱で民族意識を熱くさせたりする。（これは現在でも運動会からサッカーの試合まで各種イベントで幅広く使われる手である）
また、自国の政治家や味方の進軍の映像には勇ましく豪快な音楽を鳴らし、敵が登場する映像には貧弱な音楽や安っぽい音楽を鳴らして一方的な印象を植えつける。（これもＣＭフィルムなどで現在でもよく使われる手である）
あるいは、ひとつの場所に集めた群衆を火と光と音楽で装飾した壮大な儀式に巻き込み、陶酔した大衆の心のすきまに独裁者なり教祖なりが特定の思想を吹き込む。（この効果もロック・コンサートからオリンピックまであらゆるイベントに利用されている）
事実、ナチスは天才的なまでの計算で音楽のこの魔術的効果を利用した。音楽は真実で人を感動させるほかに、嘘の感動で人をだますことにも使える、と政治家たちは気付いてしまったのである。挙げ句があの世界中を巻き込んだ恐怖の戦争である。
作曲家たちは悲しみ、そして考えた。人を欺いたり、戦争に駆り立てたりするのに音楽を使われるのはもうごめんだ！。いっそ人を感動させず、酔わせず、気持ちよくさせない音楽を作ることにしよう！。二度と間違いを犯さず、二度と悲しい思いをしないために！
「こうして現代音楽は生まれたんだよね。つまり、彼らが音楽の楽しさ美しさを捨てるについては悲しい悲しい歴史的背景といきさつがあったわけ」と私。
「ふーん。そうだったの。知らなかったわ。私、これからは現代音楽も少しは聴いてみようっと」とＮ嬢。
「....と、こういうふうに音楽は人をだますんだよね」
「こ、このォ！」
人は、いい音楽ほど「暖かい」とか「熱い」と感じるようだ。ぬくもりのある音楽、熱気にあふれたコンサート、白熱の名演、燃えあがる聴衆、熱狂的な拍手。
これが「冷たい」とか「寒い」と言ったら、一転して否定的なニュアンスになる。冷たい音楽、寒々としたコンサート、冷めた演奏、凍り付いた聴衆、冷たい拍手。
しかし、考えてみれば音に温度などあるわけがない。一体どこが熱くてどこが冷たいのだろう？
「当然聴いてる人間の体温だと思うけど」とＳ氏。
「ええっ。音楽を聴くと体温が上がるの？」とＮ嬢。
「だって音楽を聴いて興奮すれば脈が早くなるんだから、体温も上がるんじゃない？」
「えー。でも、体温が上がるって言ったって十度も二十度も上がるわけじゃないし。それに、体温が上がったら寒く感じるんじゃない？。風邪で熱が出た時は寒気がするわよ」
「うーん、凄い説得力！」
確かに、激しい音楽や演奏を聴くと、興奮して心臓がドキドキし、呼吸も早くなることがある。これは、音によって自律神経が刺激され、筋肉や内臓が反応してしまうためらしい。
よく「音楽（特にリズム）を聴くと自然に身体が動いてしまう」と言うが、これである。その結果、新陳代謝（しんちんたいしゃ）が活発になり、熱さを感じさせる。
一方、クラシックの静かな曲や子守歌のような音楽は、逆に一定した穏やかな刺激を神経に与えるので、心臓や呼吸を安定させる。その結果、脳波はアルファ波になり、精神が落ち着いて気持ちが静まる。いわばホッとした暖かさを感じさせるのである。
つまり音楽は、空気の振動で人の身体を刺激し、肉体や心を内側から熱くさせたり静めたりする不思議な力を持っているのである。
そこで、「音」には温度がないにもかかわらず、「音楽」には人に暖かさを感じさせるような奇妙な効果があるわけなのだ。
「それって、なんか電子レンジの仕組みに似ているよね。あれもレンジに入れた食べものに電子シャワーを当てると、水の分子を刺激して内側からジュワッと熱くなるじゃない」とＳ氏。
「え？、電子レンジってそういう仕組みなの？ あたしまたゴジラみたいな熱光線が出てきて熱くするのかと思ってた！」とＮ嬢。
「え？ ゴジラって熱光線を出してるの？ 俺はまた熱い息を吐いてるのかと思ってた！」
（おーい、いったい何の話をしているのかね？）
和声や対位法についてはかなり複雑な西欧音楽も、ことリズムに関しては意外なほど単純だ。
未開文明の数の概念の幼稚さを笑うジョークに、「彼らは、数を数えるのに、一、二、三、たくさん、たくさん......だけですむ」、というのがあるが、その伝で言えば「西欧音楽は、リズムを数えるのに、一、二、三、四......だけですむ」のである。
「これはたぶん、西欧音楽のリズムの基本が、乗っていた馬の足の四本だからなんだろうね」
「ふーん。じゃあタコに乗ってたら八拍子で、虫なら六拍子で、ムカデなら百拍子だったんだ」
「いや、そういう議論をしてるんじゃないんだけどね」
この最も生物的で原始的な二の倍数リズム、四・八・十六......といくら繰り返したり細分化したりしても所詮、行ったり来たりの二点間の直線運動にしかならない。
それなのに、かなり高度になった現代のロック音楽ですらこの四の倍数リズムからほとんど脱していないというのは、不思議を通り越して西洋の神秘だ。
この迷宮からの脱出法は簡単。もう一点加えて三点にすれば、運動点は三つになり、三点を結んで三角形を描いていると、リズムはやがて自然に円運動になる。
つまり、三拍子こそが直線という牢獄から脱出するための、非直線リズムへの入口なのである。
「例えばワルツ？」
「そう。くるくる回って踊るためには三拍子が必要だからね。それから、ジャズのスウィングもそう。あれも一拍を三連符にすることで回転する力、つまりノリを生みだしてる」
「どうして三なの？」
「だって、回るってことは円を描くわけだから、一周すると円周率の拍子になるわけ。細かく言うと三・一四拍子で三・一四連符だけどね」
「あ、そうか」
しかし、現代ではコンピュータもデジタル信号も、世界の組成の基本はすべて「一、二、一、二」の「二進法」。西欧発信のこの回転不能の直線リズムが世界を迷宮に導き、終末への一本道へと誘っているのかも知れない。
ここは、例えば日本音楽のように、一拍が演奏者の呼吸に応じて自在に伸び縮みするような非直線的リズムで世界を組み立て直し、迷路から脱出したいものである。
「そうよね。そうすれば、まっさかさまに落ちるんじゃなくて、くるくる回りながら落ちれるわけだし」
「いや、そういう議論をしてるんじゃないんだけどね」
現代の「東京」という都市で作曲の仕事などしていると、実に様々な時代の様々な音楽がまるで吹きだまりのように重なり合っていることを実感する。
例えば、今年になってからの仕事はこんな具合である。
ひとつはサクソフォン協奏曲。これは須川展也クンという若い名手のために書いた作品で、ピアノとパーカッションとオーケストラをバックに、サックスがクラシックとジャズとロックと民族音楽の間を疾走するもの。
もうひとつは日本音楽集団という邦楽器ばかりの団体のために書いた作品で、尺八や琵琶や三味線など各種の邦楽器をバックに、語り手が怖い話を語る怪談もの。
最後のひとつは岡山フィルという若いオーケストラのために書いた純オーケストラ作品で、編成はほぼベートーヴェン時代の古典的な中型オーケストラによるもの。
「言ってみれば、クラシックとポップスのゴッタ煮と、古典と現代のスクランブル・エッグと、西洋と東洋の混ぜゴハンを出す無国籍料理屋のコックみたいなもんだな」と、相変らず口の悪いＳ氏。
「悪かったね」と私。
でも、クラシックは学生オーケストラの頃から体感しているし、ジャズはコンボらしきものを組んでいたので少々のアドリブは身に付いてるし、ロックもバンドらしきものをやっていたので妙なリズムが染み付いているし、作曲はピアノと並行してコンピュータも使っているし、邦楽も実はグループを組んでいたのでベンベンやるのもそんなに違和感ないし。
「あんたは何者なんだ？」
「そうそう、それなんだよ」
西欧クラシック音楽から日本の古典音楽、ジャズやロックから現代文明の象徴であるコンピュータ音楽、おまけにアジア音楽から世界中の民族音楽にまでアクセスできるのが現代日本人の長所。
しかし、それは逆に言えば、日本人であるとも西洋人であるともアジア人であるとも言い切れない場所にいるまま、音楽を表層だけ享受している恐怖にも連なる。
それは、ポップスだ演歌だロックだジャズだクラシックだエスニックだと雑食動物のように様々な音楽を食い散らかしている現代の聴き手も同じこと。
「でも、もう何も知らなかった真ッサラだった頃には戻れないものなあ」とＳ氏。
「そう。後戻りできない以上、これは雑食のテクニックに磨きをかけ、そのポリシーを確固たるものにするしかないだろうね」
「なんかゴキブリみたい...」
「そ、それは禁句！」
夏の夜には怪談である。幽霊、亡霊、怨霊（おんりょう）、化け物、鬼、妖怪、あやかし、魑魅魍魎（ちみもうりょう）。怖い話は実に豊富だ。
そして、この種の怪談には、音の効果も欠かせない。山寺の鐘の音が陰にこもってゴーーン.......と鳴ったり、闇の奥から不気味な足音がカラン・コロン・カラン・コロン.......と近づいてきたり、歌舞伎でオバケが出る時にヒュードロドロ.......という効果音が聞こえたりすると、怖さは倍化する。
しかし、音楽あるいは音自体が「怖い」ということはあるのだろうか？
例えば、どこから出ているのかわからない音が聞こえたり、その音が不安定に音程を上下させたりすると、これは確かに不気味で怖い。あるいは、脈絡のない音が連続したり、長い沈黙の後で突然大きい音が聴こえたりするのも恐怖を感じさせる。
「それって、現代音楽は全部持ってるんじゃない？」
「うーん......」
それはさておき、考えてみれば、動物にとって「耳」とは危険を察知するレーダーのようなもの。自分に害になりそうな何か得体の知れないものが近づいてくる予兆の音は、恐怖に直結する。
しかし、それは逆に言えば、音それ自体が恐怖なわけではなく、ある種の危険や何か悪いことが近づいているというイマジネーションこそが音による恐怖の本体であるということにもなる。
そこで人によっては、月末に鳴る電話のベルとか、自分の名前を呼ぶ上司の声とか、愛をささやく女性の優しい声とかが、恐怖の音楽になるわけだ。
「それは、自分が何か悪いことをしているからじゃないの？」
「うーん......」
それはともかく、この恐怖のイマジネーション、太古の時代に私たち人間の先祖が持っていて、いまだに私たちの心の奥底に残っている「暗闇の中から獣が襲ってくるのではないか」という恐怖の感情が元らしい。
その証拠に、怖い音を感じた時、人は青ざめ身を固くする。それは筋肉を固くして獣の爪や牙による第一攻撃の被害を最小にし、同時に血管を収縮して出血を最少にする仕掛けなのだそうだ。気絶するというのも新陳代謝を低くしてダメージを最小にする効果がある。
「ふうん。だからあなたは毎月、請求書を受け取るたびに青ざめるわけね」
「うーん......」
「あ、今月はホントに気絶しちゃった」
太陽系付近を航行していた異星人の船が、宇宙空間を浮遊している小さな金属盤を発見し、それを回収した（....とする）。
そして分析の結果、未知の星の生物による「大気の人工的な振動の変化の記録（音楽）」がその円盤に収録されていることが判明した（....とする）。
さて、異星人はこの小さな円盤（ＣＤ）に収められた音楽だけから、地球人の姿や文化をどこまで読み取ることができるだろうか？
「うーん、宇宙人が人間の音楽を聞いても何が何だか分かりっこないし、音だけで視覚的な情報がないんじゃ、姿・形なんか想像できるわけないんじゃない？」
「そうでもないよ。音が記録されているんだから、まずは大気の振動を知覚する器官（耳）がある生物だってことが分かるでしょ」
「あ、そうか」
歌が記録されていれば、その発声方法から大気呼吸する生物であることが分かるし、録音の状態から大気の成分も概算できる。また、その音域や音質および持続時間から、体長および体の材質もある程度まで推定できる。
「耳があって、スーハー息をする体長一メートル半くらいのタンパク質製の陸上生物ってわけね。それから？」
周期的なパルス（リズム）の使用法や早さおよびその変化から、この生物が脈を打つ循環器を持った温血動物らしいことも推定できるし、声の音質が二種類以上あることに気付けば単性生殖の生物ではないことも推定できる。
「心臓があってオス・メスがある動物ってわけね。それから？」
声以外に使われている複数の音源（楽器）の発音パターンから、この生物が道具を扱う体形を持つこと、それは二本程度の腕と四本以上六本以下の指からなること、が推定できる。
「うーん。手が二本に指が五本ね。それから？」
それらの音源（楽器）が、動物質（太鼓など）、植物質（木管楽器や木の打楽器）、鉱物質（金管楽器や金属の打楽器）などに分類できることから、他の動物を狩猟し、植物を栽培・伐採し、鉱物を採掘・製錬する文化を持つ生物であることが想像できるし、さらに電気回路による発音源が存在することから、その文明が科学技術を主体としたものであることも推定できる。
まさに音楽の形は、そのまま人間の形なのである。
「へえ。ＣＤ一枚の音楽だけでそこまで読めるかねエ」
「推理だよ。ワトソンくん」
「君が宇宙人なら、ね」
＞＞ つづく